8th International invitasional poster exhibition 第8回大垣国際招待ポスター展

現代ポスターはどこへいくのか?

日本国際ポスター美術館ディレクター 金沢大学教授 松浦 昇


  昨年(2009年)11月上旬、ワルシャワにいた。寒さに弱い私は、ホテルに閉じこもっていた訳ではないが、ワルシャワ美術大学の教授やポーランドのデザイナー、アーティストには、一切会わなかった。ポーランドの11月1日は、日本の『お盆』に当たる日で、敬虔なキリスト教徒の多いポーランドでは、市民や学生は前日から郷里に帰り、その日は美術館や公共施設は休みになっていると岡崎教授から聞いていた。どこにも行けないので、岡崎教授の勧めでその行事を見学する事にした。ワルシャワ市民と一緒にバスに乗って、ある墓地を訪れた。そこは以前、7年前になるが、ヤン・ムウォドゼニェツの墓参りに訪れた墓地で、その時の記憶が鮮やかに蘇った。彼が私を導いたのか、何の迷いもなく彼の墓に辿り着いた。墓にはキャンドルや花が飾られ、夜にはキャンドルに火が灯されるので、墓地全体が幻想的な雰囲気に変わる。私は夜まで墓地にいなかったが、ホテルのテレビでその事を知った。お墓に火が灯されるのは、日本でも同じで、亡くなった人の霊を迎える儀式は共通している。

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 私はヤン・ムウォドゼニエッツの墓に問いかけた。「私はなぜ、ここにいるのか。もし、私に伝えたいことがあるのなら、それは何か。」そして、生前、彼のアトリエを訪れた時、「ワルシャワ市民の心を明るくするために、私は意識して明るい色を使うことにした。」という言葉の背景を、もう一度、想像することにした。それは戦後、完全に破壊されたワルシャワ市街地の中で、明るい色を意識的に使うことによって、少しでもワルシャワ市民の心を明るくしたい、という強い思いがあったからであり、そのポスターの制作活動の拠点であった『ポーランドポスター学校』の存在を思い起こさせた。彼は私に伝えたかったことは『ポーランドポスター学校』の存在を明らかにすることではないか、と自問自答し、確信するに至った。ただ、著名なポーランドポスター研究者である、ポズナニ国立博物館ポスター部長スジスワフ・シュベルトは、『ポーランドポスター学校』には触れていないのである。今年の金賞受賞者の展覧会場で彼と会った時に『ポーランドポスター学校』について意見を求めたが、「ポーランドポスター学校については、ヨゼフ・ムロシュチャクが執筆している本がある。」と応えるだけであった。ポーランドポスター研究者が、なぜ?ポーランドポスター学校を避けようとするのか、不思議に思った。しかし、「協力できることがあれば連絡ください。」と好意的な態度を示されたので、嬉しかった。

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 ポスターはアートであり、メッセージである。また、ポスターは自己表現のひとつであり、近代ポスターを確立したジュール・シェレやロートレックはそれを実証した。現代ポスターはロートレックの時代から進化していて、現代において、世界の20数都市でポスターの国際的なコンクールや展覧会が開催され、現代美術の一分野として、世界の人々から支持されている。

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 2010年6月5日午後6時頃から、第22回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレのオープニングセレモニーが始まったが、私は3日の夜、ワルシャワに到着し、4日の朝から、ビエンナーレ関連行事を順番に飛び回っていた。そのひとつであるEU加盟国の美術大学の学生を対象とした、第2回国際学生ポスターコンクールが4日の昼から開催され、そのテーマは『POWER VS. POVERTY』で、私はビエンナーレ以上に、西空港を発つ前から、その展覧会に期待をしていた。日本からU.G.サトーやカリ・ピッポ、フィン・ニガルド、ホー・ジャンピンらヨーロッパのデザイナーも参加してオープニングセレモニーが開催されたが、テーマが難しかったのか、中にはおもしろい作品もあったが、私にとって期待が外れた展覧会であった。EU加盟と情報化社会によるグローバル化によって、表現における地域性や多様性が懸念されているが、学生もグローバル化の影響を受けているように思った。つまり、学生がもつ真摯な眼や、表現における特有の力強さや若さが、あまり感じられなかったが、今後に期待したい。

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 5日の12:30頃から、前回の金賞受賞者の展覧会が、ヤン・ムウォドゼニエッツの墓がある墓地の近くのデザイン専門学校の展示室であった。私はホテルからタクシーで行くつもりであったが、時間があり、いい天気だったので歩くことにした。歩いて行ける距離ではないので、途中からタクシーで行けばいいと思って歩いた。30分程度歩き、少し疲れを感じてきたので、タクシーに乗ろうとしたが、なかなかタクシーがつかまらない。タクシーが駄目ならバスしかない。墓地へ行くバスの番号を聞いていたが、確かめることができなかったので不安であったが、180番のバスに乗った。見慣れない風景に戸惑いを感じていたが、20分くらい経つと急に見たことがある風景に変わった。以前、宿泊したホテル・マリアの近くの風景で、ホテル・マリアから歩いてその会場に行った記憶が鮮やかに蘇ったのである。180番のバスは、墓地から旧市街、聖十字架教会、ワジェンキ公園、そして、ヴィラヌフ宮殿まで走っている。今回のビエンナーレ関連のイベントが、この路線に集中している。今までタクシーに頼っていたので、こんな発見はなかったが、私は180番の路線を、『ポスターロード』と名付けた。

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 前回金賞受賞者に、日本から目谷裕美子がいた。通訳のドロータが案内して、目谷は札幌から友人二人と一緒に出席した。その三人が着物姿で出席したので、出席者の眼を引き、関心が三人に集中し、オープニングセレモニーの挨拶もかき消された状態で、運営委員長のレフ・マエフスキまでが三人にすり寄り、一緒に写真におさまり、上機嫌であった。展覧会より三人の着物姿が、出席者の関心の的であり、記念に一緒に写真撮影をしていく人がほとんどであった。私は受賞者の二人、フランスのロナルド・クルシュドとオーストラリアのマーク・ゴウイングに挨拶と名刺交換をしたが、マークには第8回大垣国際招待ポスター展の出品依頼をした。ロナルドには今まで出品してもらっている。大垣国際招待ポスター展には今までオーストラリアから出品者がいなかったので、彼の出品への快諾がうれしかった。

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 まだ太陽の日差しが強い中で、ヴィラヌフポスター美術館の中庭で始まった第22回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレのオープニングセレモニーは、淡々と形式的に進行していったが、その中で非常に気になったことがあった。司会者や関係者が、ヴァルデマル・シュヴィエジを異常に賞賛していたことである。彼らは『ポーランドポスター学校』の最後のひとりということを意識していたのか解らないが、私は、彼が今までポスターを1500点以上制作している事実を、まず、賞賛したい。ドロータを通じてシュヴィエジの話をゆっくり聞く場をつくってもらい、彼から『ポーランドポスター学校』について詳しく聞くことが、今回のワルシャワ訪問の目的のひとつであった。

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 セレモニーに、松永真とギンザ・グラフィック・ギャラリーの北沢永志がみえたので驚いた。イタリアからの帰りで、寄るつもりがなかったが少し時間が出来たので寄ったらしい。ヴィラヌフポスター美術館に1時間もいないうちに、慌ただしく次の予定地へ飛び立っていった。

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 セレモニーが終わってポスターを見て回ったが、参観者が多かったこともあるが、落ち着いて見る気がしなかった。写真もいつもであればフィルムで2〜3本、100枚前後撮るが、今回は20枚ぐらいしか撮っていない。若いデザイナーの進出は喜ばしいことであるが、ただ、そのポスターを見ていてもわくわくしない。グローバル化の影響か、ローカルな、突出したおもしろい作品が見当たらない。今までポスター芸術の質の向上に貢献してきた先輩デザイナー達を脅かす存在とは言いがたい。しかし、確かにポスター芸術は成熟期に入り、不安定な格差社会の中で進化しているといえる。

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 美術館の中庭でビアパーティが開かれ、それに参加した。今回のビエンナーレの審査委員長であるドイツのグンター・ランボーが同じテーブルで、U.G.サトーと話をしているのを横目でみながら、グンター・ランボーとフィンランドのラハチで初めて会った、19年前のことを思い出していた。彼の作品が、フォトモンタージュから、バウハウスの構成主義に変化していたので、驚いた。

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 6日の午前中は、ドロータが疲れていたので、彼女に変わって札幌からみえた三女性を旧市街に案内した。そこから、私はタクシーで、13:00から始まるピヨトール・ムウォドゼニエッツ個展のオープニングに駆けつけた。どの会社のタクシーか確認せずに慌てて乗ったので、料金は通常料金の3倍とられ、おまけに30分遅れで着いた。気分を害した状態であったが、ピヨトールや参加していたポーランドのデザイナー、フィンランドのカリ・ピッポらは、私を暖かく迎えてくれた。

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 ピヨトールは、ヤン・ムゥオドゼニエッツの息子で、私がヤン・ムゥオドゼニエッツから招待を受けた時、英語の通訳として立ち会ってくれたりしたが、彼の活躍は目覚ましく、今やポーランドを代表する中堅デザイナーのひとりである。ヤン・ムゥオドゼニエッツが亡くなっても、ワルシャワを訪れる度に、どこかの会場で彼と会い、会っても話すことはないが、彼の元気な顔を見ると安心するのである。ただ、残念なことは、この個展会場において、中堅デザイナーであるサドフスキやポンゴフスキの顔を見ることができなかったことである。今、若いデザイナーがなぜかもてはやされているが、ポーランドポスターはどこへいくのか。この三人の中堅デザイナーが、その鍵を握っているといえる。

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旧市街広場、破壊から完全に復元されたワルシャワのシンボル

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ヤン・ムゥオドゼニエッツの墓


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第22回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ会場


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左から目谷裕美子とドロータ


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ピヨトール・ムゥオドゼニエッツ展のDM