「ワルシャワポスタービエンナーレ、40周年に思う」松浦昇 Noboru Matsuura(Japanese text only)
会場風景 The hall scenery
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ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ、40周年に思う

日本国際ポスター美術館ディレクター
金沢大学教授 松浦 昇

40周年を迎える第20回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ(1992年第13回開催予定が中止)のオープニングセレモニーは、2006年6月3日午後6時からヴィラヌフポスター美術館の中庭(1994年第14回から実施)で開催され、記念すべきビエンナーレということで、関連イベント含めて、組織運営委員会の意気込みが伝ってきた。第14回から組織運営委員長を務めているレフ・マエフスキ(ワルシャワ美術アカデミー教授)にとって特に感慨深いセレモニーであったように思う。私は、彼と組織運営委員会スタッフに「おめでとう。」という言葉を捧げ、一緒に喜びを素直に表現したい。

1992年開催予定の第13回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレが、政府からの援助が打ち切られ、経済的に運営が困難であることを、1991年6月ワルシャワを訪れていた私は、当時のヴィラヌフポスター美術館館長、ヤニナ・フィヤウコフスカ女史から知らされた。「いままでの開催会場であるザヘンタ美術館が1992年6月に使用できないので、1992年12月実施を検討している。日本からの経済的援助が欲しい。具体的にはカタログ(作品集)を日本で印刷してもらえないか。」と相談を受け帰国後、早速、その旨を亀倉雄策会長(日本グラフィックデザイナー協会)に伝えると「経済的に困っているなら、ビエンナーレを続けなくとも。」と一蹴されたが、数日後、亀倉会長は凸版印刷本社まで出向いて協力を要請し、その約束を取りつけた。しかし、日本側の努力も空しく、1992年開催予定の第13回ビエンナーレは中止となり、その話は流れた。

ヤニナ・フィヤウコフスカ女史から協力要請の話を聞く前に、私はフィンランドのラハチ市で開催された第9回ラハチ国際ポスタービエンナーレのオープニングセレモニーに参加していた。セレモニー終了後、組織運営委員長のタパニ・アールトマー邸においてビエンナーレ関係者のパーティーが開かれ、そこで、第14回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレから組織運営委員長を務めることになるレフ・マエフスキに会った。アメリカのヤン・サフカやドイツのグンター・ランボーら欧米のデザイナーがいたが、なぜかレフ・マエフスキが一番印象に残っていた。彼はフィンランドに留学中で、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレの存続が危ぶまれていることなど、その時は知らなかったかもしれない。しかし、フィンランド留学が彼にとって、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレにとって、大きな転機となったことは事実である。

私は戦後世界のポスター芸術をリードしてきたポーランドポスターに敬意を表するために、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレには何があっても出席するように努めてきた。オープニングセレモニーに出席することがワルシャワ国際ポスタービエンナーレを支援していることになると考えていた。1966年に開催された第1回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレにおいて、日本の田中博と永井一正が金賞を受賞した。その後日本から多くの受賞者を輩出している。1950年代から原弘や早川良雄ら個人のポスターが国際的な評価を受けているが、このビエンナーレによって日本のポスターが国際的に認められ、意識されるようになった。つまり、日本がポスター王国として認められることになった。だから、ポーランドに敬意と謝意を表するために私はワルシャワ国際ポスタービエンナーレのオープニングセレモニーには、日本を代表するつもりで出席していた。特に日本人が金賞受賞した場合、帰国後受賞者に連絡したり、次回の金賞受賞者展の相談にのったりした。

40周年の今年も例年と同じワルシャワ訪問計画を立てていた。6月1日の夜遅くワルシャワに着き、タクシーでホテルに着くと深夜の12時半をまわっていた。ホテルは、漸くワルシャワ大学の岡崎教授推薦の『ホテル・マリア』に宿泊することができた。大きくはないが、落ち着いた感じのホテルで、ポーランド通を自称できるホテルである。

2日の朝、朝食を済ませ、タクシーでワルシャワ美術アカデミーへ向かった。アカデミーでは卒業制作展の準備中で、一部の学生が展示に汗を流していた。その学生を横目に見ながら、いつもであれば挨拶をするために教授控室にヴィチョレック教授らを訪ね、そこでいつもの苦いコーヒーをいただくことになるが、アカデミーにおける世代交代や価値観の変化を考えると、いままでのようなアカデミーへの係わりは出来ないと思っていた。だから、挨拶もしないで大学構内の卒業制作展を見て回った。見学していると学生を指導しているレフ・マエフスキ教授に会った。挨拶をして世間話をしていると、中国のホー・ジャンピン夫妻がやってきた。彼とは初対面であったが、懐かしい友人が会うような感じで「ホー・ジャンピン」、「松浦」と呼びながら固い握手をした。レフ・マエフスキが間に入ってきて話が弾んだ。一旦別れて教室を回っていると、タパニ・アールトマー夫妻に出会った。挨拶しているとその場にホー・ジャンピン、レフ・マエフスキもやってきて、彼に敬意を表する挨拶をした。アールトマーは私に「松浦、これあげるよ」と言って、彼の作品集を私に差し出した。彼はフィンランドのラハチ国際ポスタービエンナーレを創始したフィンランドのグラフィックデザイン界の重鎮である。今回、ビエンナーレの関連イベントとして彼の個展が開催される。40周年という記念すべきビエンナーレに、レフ・マエフスキが恩返しとして彼の個展を企画したのではと思った。

11時から始まる関連イベントの会場へ向かうために、アカデミーから新世界通りを歩いて地下鉄の駅へ向かった。関連イベントの会場は毎年変わるため、アカデミーでそれを確認するために、ワルシャワに着いたらまず、最初に訪ねることにしている。会場であるウォヴィツカ・センターは今まで何回か関連イベントに使われていたので、うろ覚えであったが、私の記憶は残っていた。最初はタクシーで行ったが、会場がなかなか見つからず、その周辺を30分くらい回っていた悪い記憶があるので、確実にいける手段としてアカデミーの先生から地下鉄が良いと聞いたので、私はウォヴィツカ・センターには地下鉄で行くことにしている。ここは思い出深い会場である。金賞受賞者、審査員の展覧会が何回か開催されているからである。ここで、欧米の数多くの著名なデザイナーらと出会い、今日まで交流が続いている。それが大垣国際招待ポスター展に繋がっている。今回はフランスのテリー・サファリスが企画した『文化の民主主義』と、チェコのカレル・ミゼックが企画した『ヨーロッパのアイデンティフィケーション』という意欲的な展覧会である。欧州連合加盟国の15の美術大学に呼びかけて企画された。私が関連イベントの中で一番興味をもった展覧会で、ポスターの新しい可能性が発見できるかも知れないと期待していた。レフ・マエフスキとヴィラヌフポスター美術館のマリア・クルピク女史が司会を務め、テリー・サファリスとカレル・ミゼックが展覧会企画の意図を説明した。ヨーロッパの学生が難しいテーマをどのように切り込んでくるのか、欧州連合をどのように見ているのか、欧州連合のアイデンティティをどのように捉えているのか等、大変見る側をワクワクさせる展覧会である。しかし、あまりにも期待しすぎると、学生たちの未消化部分が大きく見えてしまうが、そこを差し引いて見ると、ポスターがもつ新たな可能性を提示している。40周年に一番相応しい企画であると思う。カレル・ミゼックから私に「この展覧会を日本でできないか。」と打診があり、「あなたが帰国後連絡するので、検討して欲しい。」と聞いていたが、彼からまだ連絡がない。その場には、フィンランドのペッカ・ロイリ、デンマークのフィン・ニガルド、スイスのニクラウス・トロクスラーらが出席していたが、彼らもビエンナーレを支援しているデザイナーたちである。イスラエルから来ていたイコ・アビタルとは初対面であったが、私を「イスラエルで講演とワークショップをやってもらえないか」と口説いたが、中東の情勢を見ると即答は出来なかった。1時間ぐらいでその場は自然解散となり、次の会場へ行くことにした。大通りでタクシーを捕まえようとしていたフィン・ニガルド夫妻、ペッカ・ロイリ、イコ・アビタルらに私は「タクシーより地下鉄のほうが便利ですよ。」と教えると「松浦が地下鉄を知っているとは驚きだ。松浦はポーランド通だ。」と、フィン・ニガルドが言った。彼らは初めてポーランドの地下鉄に乗ることとなった。

午後1時からワルシャワ美術アカデミーにおいて卒業制作展のオープニングがあったが、デザイン以外の絵画や彫刻、版画、写真等を見終わると、旧市街地まで歩いていつものレストランで遅い昼食をとった。次のイベントまで時間があるので、タクシーでホテルまで戻り、休息をとった。
午後5時から国立オリンピックセンターの一角で『ポーランドとノルウェーの若いデザイナーのポスター展』のオープニングがあった。中心街からタクシーで1時間ぐらいかかるところにその会場があり、市街地の地図には載っていない。せっかく素晴らしい展覧会であってもこんなに遠くては、市民がわざわざ見にこないのではと心配してしまう。ここでもレフ・マエフスキの司会で始まり、ワルシャワ美術アカデミーの学生や若いデザイナーが会場を埋めていたが、海外の参加者はニクラウス・トロクスラーと私、2人であった。展示されているポスターの中で、私が以前から注目しているポーランドのセバスチャン・クビツァとモニカ・スタロヴィッチのポスターが秀でている。私の眼に狂いはなかったと確信した。トロクスラーから意見を求められたので、「ノルウェーのポスターはポーランドポスターと比べると、アイデアが浅い。しかし、ポーランドポスターも良き伝統が失われつつあるのでは。」と答えると、トロクスラーは「その通りだ。」と相槌を打った。

午後7時からタパニ・アールトマーの個展のオープニングがあった。私はアールトマーに敬意を表するために日本から、金沢から持参した日本酒を手渡した。彼は驚いた様子だったが、「ありがとう。」と素直に喜んでくれた。この時私の体調は非常に悪く、特に咳がひどく、傍にいたヴィエスワフ・ロソハが心配する程で、アールトマーとは話が出来なかった。また、ポーランドポスター界の巨匠ヴァルデマル・シュヴェジに久しぶりに会ったので、話をしたいと思っていたが、彼も私と話をしたいらしく日本語のできる娘さんのドロータ女史を捜していたが見当たらなくて、私も咳がひどいため、お互い顔を見合わせながら握手をして挨拶だけで別れた。

午後8時からレフ・マエフスキ教授がワルシャワ美術アカデミーで最近10年間に教えた学生の展覧会のオープニングがあった。レフ・マエフスキは上機嫌で、彼と話をと思ったが咳がひどく疲れていたので、いつものレストランで食事をとって、タクシーでホテルへ帰った。

6月3日、第20回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレオープニング当日は、その前に前回金賞受賞者、今回の審査員の展覧会のオープニングが恒例となっている。午後2時から開催されることになっているが、宿泊しているホテルから近いので、確認しておこうと思って午前中にでかけた。しかし、どうも会場らしきところへ行っても人影がない。その建物が立っている通りも全く人影がなく、近くには墓地らしきものがあって非常に寂しいところで、ここで本当に展覧会があるのかと疑いたくなった。プログラムに記された住所を通りがかりの人に確認すると間違いがない。レフ・マエフスキはスポンサー確保による財政面は上手くいっているようだが、会場確保に悪戦苦闘しているようだ。ホテルでワインを飲みながらゆっくりと昼食をとって、オープニング30分前に着くと、人が集まっていた。しかし、前回金賞受賞者の喜多紀和がまだきていない。ビエンナーレ担当者から私に「喜多はどうしているのか。」と聞かれたが、私は返事に困った。彼から聞いていたことは、昨夜遅くワルシャワに着くことと、宿泊ホテル名だけで、今朝、彼から何の連絡もなかったので、時間前には来ると思っていた。オープニングの時間になってもやってこない。また、担当者から彼はどうしたのかと私を睨むような表情で聞いてきた。「そのうちくるでしょう。」と言ったら本当にやってきた。セレモニーがほとんど終わりかけていたが、司会者のクルピク女史がマイクを彼に渡し、セレモニーはなんとか終えることが出来た。そしてその場に日本から、U.G.サトー、秋山孝、新家春二らが出席していたので、私は安心した。展覧会では、以前から金賞受賞者のロシアのウラジミール・チャイカのポスターに関心をもっていたので、その後どのように発展、進化しているのか、興味があった。彼は欠席していたので、会うことは出来なかったが、7年前、日本国際ポスター美術館で日本の文化や視覚言語について話し合ったことを懐かしく思い出していた。

午後6時からヴィラヌフポスター美術館の中庭で、第20回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレのオープニングセレモニーが始まった。40周年ということもあって例年以上に時間をかけ、受賞者の発表だけでなくビエンナーレを支えている人々の紹介があり、私や『ミスター・ポスターマン』ことスイスのレネ・ヴェーナーも紹介された。私はレフ・マエフスキや組織運営委員会等のスタッフの努力を讃えたい。ポーランドは歴史的に苦難の道を歩んできたが、このビエンナ−レを継続させることで、ポーランド人の平和を希求する願いを示している。およそ20年間、私はポスターを通してポーランドと向き合ってきたが、ポーランドポスターからいろいろなことを学んだ。

セレモニーが終わって、展覧会場でポスターを見ているとイランの若い女性のデザイナーが話しかけてきた。グループで来ているらしく、イランポスターについて意見を聞き回っている。昨年10月『現代イランポスター展』を開催していたので、意見は的確に言えたように思う。ポスターを見終わって木が生い茂っている中庭に出てみると、恒例のピクニックが始まっていた。シュヴェジの娘さんのドロータ女史が、席の確保や食べ物の手配等いろいろと世話をやいてくれた。ドロータ女史とは10数年の永い付き合いで、彼女はワルシャワ大学文学部日本学科の卒業生で、岡崎恒夫教授の教え子でもある。ドロータ女史の通訳で、お父さんであるヴァルデマル・シュヴェジと長時間話をしたことがある。彼はビエンナ−レの創始者であるヨゼフ・ムロシュチャクの教え子で、ムロシュチャクと共にクラクフからワルシャワへ移り、ヘンリク・トマシェフスキらとポーランドポスター学校を設立し、ポーランドポスターの危機を救い、今日のポーランドポスターの地位確立に貢献した人物のひとりである。ヘンリク・トマシェフスキは世界のグラフィックデザイン界における三大巨匠のひとりで、ポスターを最高の芸術に高めることを考えていた。ポーランドポスターの伝統を築いた多くの巨匠たちは亡くなっているが、シュヴェジは最後の巨匠である。ポーランド市民や文化人、デザイナーらはビールを片手に、夜遅くまで語り合っていた。ポスターを通して市民や文化人らとデザイナーが交流を深めることはなんと素晴らしいことではないか。

昨年10月、第2回中国国際ポスタービエンナ−レの招きで、中国・杭州市で『戦後から今日までのポスターについて』講演をした。1945年から2005年までの優れたポスター100点を選んで「ポスターはアートであり、メッセージである。そしてポスターはその国の文化を表象している。」ことを実証した講演であった。第2回中国国際ポスタービエンナ−レから今年の第20回ワルシャワ国際ポスタービエンナ−レ、そして第8回世界ポスタートリエンナ−レトヤマ2006を通して、ポスターは表現スタイルにおいてタイポグラフィに回帰していると言える。つまり明確なコミュニケーションを社会は求めているといえる。不確定で複雑な時代こそ社会は、明確なコミュニケーションを必要としているのである。タイポグラフィはポスターの原点であり、現代ポスターは言葉の違いよりも文化におけるアイデンティティが重要であることを示している。欧州連合のアイデンティティとは何か、と日本人の私が考えても難しいが、東アジアのアイデンティティとは何か、と問われたら「漢字文化圏」と直ちに答えるだろう。現代ポスターは否定的に現代社会を捉えていないが、楽観的にも捉えていない。半歩基軸を未来社会に置き、人間力の回復をデザイン力によって祈念している。ポスターは未来社会と共に歩む芸術である。

大垣国際招待ポスター展は、これまで多くのデザイナーや市民、文化人、そして地域企業に支えられて、漸く10周年を迎えることができた。初心を忘れず継続していくことが、いままで支えていただいた方々への感謝の言葉として受け取っていただけるだろう。大垣からポスターを通して、世界平和を祈念し、成熟した文化社会の創造に貢献したいと願っている。

 

タパニ・アールトマー個展オープニング光景。中央がアールトマー夫妻。左端はレフ・マエフスキ。


第20回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ光景。


金賞受賞者・審査員展の会場でニクラウス・トロクスラーと。左端は秋山孝。


「文化の民主主義展」
「ヨーロッパのアイデンティフィケーション」のオープニング光景。右端にカレル・ミゼック、テリー・サファリス。


ワルシャワ美術アカデミーでホー・ジャンピンと。


ビエンナーレ・オープニングセレモニーの光景。


ビエンナーレ・オープニングセレモニーの光景。
マイクで喋っているのが審査委員長のマルチン・ムロシュチャク。ビエンナーレを創始したヨゼフ・ムロシュチャクの息子。


タパニ・アールトマーと。


ワルシャワ美術アカデミーの卒業制作展示光景。


第2回中国国際ポスタービエンナーレの審査員と。左端はフランスのピエール・ベルナール。


講演光景。